山田まさ子フリーライター、アスペルガー当事者 ,東京,呼びかけ人)

誤診七年目の春

はじめまして。
 わたしは、東京都国立市に住み、アスペルガー〔精神障がい2級〕で、山田まさ子と申します。
統合失調症と誤診されて、長く薬剤被害に苦しんだ体験をもっています。
あなたに、よいお医者様であっても精神科は誤診がおきやすく、また脳のお薬の副作用はたいへんなこと、そうお伝えしたいのです。
 
精神科の患者のいうことなんか信用できない、医療の専門家のお医者様に間違いがあるわけない、何かの宗教や本をうりつける勧誘ではないか…そうあなたは思われるかもしれません。
白衣を着たやさしい先生が処方して下さったお薬、「早く治療すれば、早くよくなります」「そう強い薬じゃありません」
そうおっしゃってくれたら、誰だって、そう途方にくれているあなたはお医者様を頼りにします。
ええ、かつてのわたしのように。
 
 白衣を疑ってかかることはむつかしい。いま、こうしてお手紙を綴っているとき、七年間の患者生活の間にわたしのそばを通り過ぎた患者さんたち、大量投与で手が震えたり、よだれやおしっこをこぼしたり、薬によるいらいらから自殺したり、20種類の薬剤を処方されて突然亡くなった方、16才で入院させられ青春期がなくなってしまった方など、今なお苦しんでいる方もふくめて、たくさんの方々が浮かんでくるのです。
 
 わたしのような患者の手紙なんて、無駄かもしれない。けれども、どこかのたったひとりのお母さんが読んで、子供に脳の薬は危ないと思ってくれるかもしれない。
「子供に早期介入」は、お国の決めたプロジェクトです。とめるなんて、むりかもしれない。でも、一パーセントでもとめる可能性があるのなら。
 
 障がい年金や生活保護で暮らし、わたしは社会から脱落しています。けれども、あなたにお話したいです。「ほんとうの話」をすることが、体験を伝えることが、わたしに出来るたったひとつのことだからです。
 
 なぜ、お医者様が誤診になってしまったかという、つまりどういうポイントでお医者様が診断なさっているかという、そこからお話したいと思います。
 

 

1 「遺伝といわれて」
 
 お医者様が訊いてくる質問のひとつに、親戚に精神病患者はいないかというのがあります。もしも親戚にたまたま心療内科にかかったことのあるひと、とくに統合失調の診断を受けたひとがいると、診断は統合失調にされてしまいます。
 
 わたしの場合は、母、山田みどりが20才の頃、精神病院に二年間入院していました。被差別部落に生まれ、母の義母は農村から遊郭に売られたひとで、被差別部落の中でも村八分にされていました。母は虐待されていて、「まっ暗」だったと話していました。母は19才のとき、わたしの父親と知り合い、やっと被差別部落と家を抜け出せると思いました、けれどわたしの父親はゴロツキであり、入籍しようにも妻がおり、ほかにも女性がおりました。ショックを受けた母は、幻覚をみるようになりました。
 海辺の精神病院でした。
 昭和30年頃の精神病院は、あばれてもいない母に、電気を麻酔もかけずに「生〔なま〕がけ」しました。
 おじいさんが母を精神病院から連れ出したのは、当時、病院で患者の食費の使い込み事件があり、ろくに食べさせていないと知ったせいです。おじいさんは、痩せ細り歩けなくなっている母を背中に背負って、病院から出しました。無理に出したんです。
 
 電気ショック療法によって、母は「イロハ」も書けなくなり、過去の記憶をほとんど失いました。「イロハ」の方は、努力して回復しましたが、記憶は戻ってきませんでした。母はそれが苦痛で同窓会に出たことは一度もなく、友達は生涯ひとりもいませんでした。お葬式もわたしの友人だけですませました。
 
 当時の担当医師は、「山田みどりさんは精神分裂症です。もう一度、発病すれば二度と病院から出られない」とおっしゃったと伝えききました。保育園のときから、わたしは母が狂ってしまってはいけないと不安でした。
 母は、一度も再発などしませんでした。
笠先生のお話では、「お母さんは思春期の一時的な錯乱ではないか」とおっしゃっておいででした。
 
 電気ショック療法は、いまだにおこなわれています。ひとの一生を彩る想い出が消えてしまうという副作用の問題は置き去りにしたまま。
 
 
2「誤診されやすい子供」
 
 今回、学校の先生方に配布されているプリント、病気かもしれない見逃してはいけない症状とされて書かれたプリントの内容を、もうごらんになられましたか?アスペルガーであれば、ほとんどあてはまってしまいます。またそうでなくても想像力の強い子供であれば、周囲と協調性はなかなかむつかしいのです。
「毒舌セカンドオピニオン」の中の「早期介入防止行動」参考19番 http://dokuzetu2.ken-shin.net/19sannkou.htm に子供時代がまとめてあります。転居が多く保育園を三回かわらされており、小学校は一度ですが転校したときから、わたしはまったく教室で喋れなくなりました。一言も喋らず、身振り手振りで返事していました。先生に「どうして口をきかないか、発表するので作文にしてほしい」と頼まれたこともありました。適当に書いたけれど、ほんとうのことは書いていません。読んだ先生が、首を傾けていたのを覚えています。
 
 先生が作文に書けといっても、小学生のわたしには、「父親がギャンブルや女道楽で、母はわたしといっしょに四万十市から高知に逃げてきた。ジュース工場でリョーマチのためやっと働いた母のお金を父親がとりにくるのでこわい…」などと、書けるでしょうか?
 親の恥を、先生に打ち明ける生徒なんているでしょうか?
 
 保育園の頃、わたしはガビョウを同じクラスの子に腕につきたてられたけれど、やったことといえばトイレに閉じこもって逃げたことです。
 
 もうちょっと角度を変えましょうか?わたしは2005年秋から2008年秋まで、松戸市で主任児童委員〔民生委員〕をつとめました。自分の事例は守秘義務があって書けないけれど、隣の町の事例で。小さな虐待されている男の子が、酔っ払いの父親から引き離そうとすると、その子は柱にしがみついて泣くんです。ご飯もろくに貰えない、ゴミ屋敷で「よそにいきたくない」と叫ぶんです。
 「話してくれないと診断できない」と、精神科医はよくいいます。でも、もしかりにお子さんが悩んでいる出来事があってそのために気分が塞いだとしても、初対面の医師に胸のうちを喋るでしょうか?
 
3 「様子見は二週間」
 
 初診日は2005年5月26日、知人が精神科に連れて行ってくれました。両親を次々と亡くし、母親を死なせてしまった責任感から、わたしは毎日、自分を責め続けました。うつ状態になり、一般的に、精神科に行くと、一週間か二週間は不安を落ち着ける薬が処方されて、お医者様はこれを「様子見」と呼んでいます。
 ところが、この短期間に改善されないと、「診断」がついてしまいます。
 たった二週間で、「症状」が改善されないと、さっさと診断されてしまうのです
「病気でない」子が、将来、新幹線の運転手になりたい子が、その短期間診断だけで未来の夢を断たれます。そもそも、その子は本当に統合失調なんでしょうか?
 
 
4「脳のお薬で出る症状」
 
 さて二週間後、統合失調症と診断されたわたしには、ジプレキサが処方されました。これは、きついお薬です。まず7キロも太りました。担当医師は、「ジプレキサは太りません」といっていましたが、ほかの患者さんがたくさん太ったため、やっと認めてくれてリスパダールに変更されました。
 ジプレキサを飲み始めて、起こった副作用のうち、主なものを綴ってみましょうね。
 
「手が震える」 
 学校のコップを運ぼうとして、お盆を落っことし、六個割ってしまいました。また一番ひどかったときの文字は、点や線のようなもので判読不明です。文字がちゃんと書けない。
 
 銀行に行った時に、名前が書けないので、「お客様は署名が違います。身分証明を出してください」といわれ、通帳でお金がおろせませんでした。
 
「文字が読めない」
 読めるけれど、文のつながりの意味がわからなくなります。五行と続かない。意味がとれなくなり放りだすわけです。当時の主治医にわたしは、叫ぶようにいいました。
「一週間前まで、わたしは文庫本一冊、四時間で読んでいたんですよ」
 すると、お医者さんはほほ笑んで、「へえ、すごかったんだねえ」と感心したふりをしておられました。わたしが言いたかったのは、そんな意味じゃないんです。たった二週間で、文字が失われたと訴えていたのです。
 
「映画がわからない」
 最後に飯田橋のギンレイホールに行ったときが、自殺を考えたときです。ギンレイホールの会員でした。いえ、その前にわたしは高知市民映画の選定をかつてしていて、シナリオ学校の卒業生でもありました。若い頃は8ミリ映画を製作していました。
 それが、画面に出てくる登場人物の区別がつかないのです。当然、あらすじがわからない。ぽかんとスクリーンを見詰めるときの絶望感は、「ああ、映画がみられない。もう人生は終わったんだ」というものでした。
 帰りの日暮里駅の高架橋で、何時間も飛び込もうとのぞいていました。
 
「お金が払えない」
 どうしても、一円玉と百円玉の区別がつかないのです。スーパーのレジで、お金をざらざらっと台の上にみんな出してしまい、店員さんに拾って貰っていました。当時、おばあさんやおじいさんたちに話をきくと、「みんなそうだよ。わからなくて払えないから千円札を出して、おつりでお財布が重いよ」と話していました。でも、あのひとたちは80歳をこえている。わたしは、まだ40代だったのです。最初は、日本のお金に問題があると思い、造幣局に手紙を書こうかと思いました。
 
「幻視、幻聴」
 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/4511/yamadamasako2.htm 毒舌1にある「きたきた幻聴さん」
 
 もともとアスペルガーのひとは、かい離しやすく、ちょっとしたストレスでも幻視、幻聴が出てしまいます。薬剤性の幻視、幻聴は華やかなもの。悪口をいわれたと思って、松戸駅でひとを追いかけ、やっぱり知らないひとだから幻聴かなと立ち止まったことも。
 
「引きこもっている」
 最初、薬が入ったばかりの頃、松戸市のアパートに引きこもっていたら、久しぶりに外に出たら足がふらふらで、お日様がまぶしかったです。スカートも何ヶ月か、洗濯しないではいていました。だるいんです。
 
「切符の買い方を忘れる」
 あるとき、突然、切符の買い方がわからなくなり、ぼうっと機械を眺めていました。
「どこへいくの?こっちへお金入れるんだよ」
 見知らぬおじさんやおばさんが助けてくれました。
 
 トシをとればそんなものよと、慰めてくれる人がいました。でも、薬剤のは、そんなゆっくりとしたものではないんです。昨日まで出来ていたことが、今日、出来なくなる。
 
「迷子になる」
 自宅に戻れなくなり、交番のおまわりさんがわたしを見つけて、「また、あなたですか」といっていました。仲間の民生委員さんが自転車で捜しにきてくれたこともありました。
 
「絶望感といらいら」
 薬害の最もひどかったピーク、いてもたってもいられない苦しさに、松戸のアパートの七階の窓にしがみついて、叫んでいました。このときの気持ちに近いのが、俊寛です。平家転覆を企んだとして俊寛・成経・康頼の三人は、鬼界ヶ島に流されますよね、あのとき残りふたりは本土から迎えがきて、俊寛だけがとり残されます。木にすがりついて、遠ざかる舟をみて、たったひとりになった俊寛が叫ぶ。あれが一番、近いです。
 孤独などという言葉では弱いほど孤独です。真っ暗な中を這っているような思いに、いてもたってもいられない焦燥が加わります。
 
 ほかの薬害から脱出した患者さんも言っていましたが、もういっぺん、薬剤であの思いをするくらいなら、死ぬほうが楽。その患者さんは、部屋に精神病院の迎えがきたら死ねるようにと、ヒモを用意していました。そのひとが、「ヒモを用意して、梁のある部屋を」と教えてくれたので、わたしは二年前まで転居するたびに梁のある部屋を捜しました。
 
5 「お薬で脳萎縮」
 
 その年の夏、初診から二ヵ月後、すっかりボケてしまったわたしは、医大に脳検査に送りこまれます。
担当医師が電話で、
「いつもの、フルコースでね」とおっしゃっていたのを覚えています。
 数字を数えるなどの屈辱的な口頭質問のあと、CTやMRIなどがあります。とくに脳波を調べるときには、わたしは閉じた眼の中に、赤や青の火花が散るのをみました。これはみない人もいます。
写真によると、頭頂葉にわずかな萎縮がありました。この部分は、道や方向の部位とされています。病院の廊下に「なつかしい道具を置けば認知が改善される」と書いた張り紙をぼんやり眺めました。
 いまのわたしなら、こう申し上げることができます。薬害による脳萎縮は、治ります。年月がかかるけれども。
 
6「お薬をのける」
 2005年10月17日に、松山の笠陽一郎医師にセカンドオピニオンの手紙を書きました。翌日に電話を頂き、「誤診なので、その薬をのけなさい」といわれました。
メジャー〔統合失調の薬〕はすぐのけましたが、他のお薬、抗うつ薬もあったため、減薬に時間がかかりました。離脱症状も、薬の副作用による気分不安定が続き、東京から夜行バスで大阪の光愛病院の島田医師のもとにも通いました。入眠薬もふくめすべてのいたのが去年の春、六年かかっています。もっとも、震災後に不眠になり、入眠薬は戻ってしまいましたが。
 
 誤診から七年後の今年の春、わたしは笠陽一郎医師のもとにご挨拶に参りました。
「すっかり治っている。もともと薬害じゃあ」
 
2012年5月11日  誤診七年目の春に。